日本酒の歴史は諸説ありますが、原料となるお米の稲作が始まった弥生時代と言われております。
日本酒の長く古い歴史の中で、移り変わりが激しかった戦前戦後の日本酒業界や日本酒のあり方について説明していきます。
戦前の日本酒
日本酒の原料は米・米麹・水です。そのためお米と水は味わいに大きな影響を与えます。
昭和に入り「山田錦」という酒造好適米が兵庫県立農事試験場で誕生いたしました。「山田錦」は日本酒が好きな方は一度は見たり聞いたりしたことはあるんではないんでしょうか。今では「酒造好適米の王様」と言われていますが、最初から確固たる地位があったわけではございません。
日本酒は伝統があり、かつ、職人の技量に遺贈するところが大きいお酒になります。だからこそ、新しい原料や新しいことにチャレンジすることで日本酒の質に影響が出ると考えられてました。
しかし、「山田錦」にとっての転機は戦争になります。戦争の影響により、お米の売買の統制などいろいろな規制が発生しました。その規制の中に、県外からの買い付けが禁止となりました。そこで、日本酒で有名な兵庫県の灘の酒蔵は「山田錦」を使わざるを得なくなってしまったのですが、予想以上に日本酒製造に適していたのです。戦争がなければもしかしたら「山田錦」は現在の地位を確立していなかったかもしれません。
戦争の大打撃を受けた日本酒
戦争が開戦してからというものの、日本は戦費の調達のために色々なものに税金をかけるようになりました。日本酒も例外ではないです。
日本酒には造石税と庫出税(蔵出し税)が課せられていました。
造石税とは、日本酒を製造した瞬間に税が課せられるというものです。
庫出税(蔵出し税)とは、造った日本酒が出荷される時に税が課せられるというものです。
その後、庫出税(蔵出し税)は級別課税制度というものになります。級別課税制度とは日本酒を一級から四級に分け、級別に税を課していくというものです。翌年には造石税が廃止され、庫出税(蔵出し税)一本になります。
税金の問題や戦況が悪化するにつれ、日本経済も悪化していきます。その中で日本酒蔵も大きな影響を受け、1930年頃、8000件あった酒蔵は、半数の4000件ほどになってしまいました。減ってしまった酒蔵は経済的な問題だけではなく、空襲での焼失やお酒造り職人の杜氏や蔵人が戦死などが影響しています。
この時代に「金魚酒」というものがありました。
これはお年を召した方は聞いたことあるものかもしれませんが、これは決して金魚が入っている日本酒ではありません。
金魚酒というのは、「金魚が泳げるほど薄い日本酒」という意味なのです。
先ほど説明させていただきましたが、戦争の影響で日本酒の生産量が減っていく中で、日本酒に水を加えて出荷する酒蔵が現れました。
戦争により、日本酒の需要と供給にギャップが発生し、その中で生まれた時代の産物になります。それでもお酒好きの方からすると、不遇の時代だったかと思います。
戦後直後の日本酒|三倍増醸酒
戦後に「三倍増醸酒」(三増酒)というものが生まれました。
三倍増醸酒という名前をもしかしたら日本酒好きな方は聞いたことがあると思います。というのも2006年に廃止されるまでは、三倍増醸酒が日本酒の主流になっていたからです。
三倍増醸酒は名前から想像できるように、日本酒を三倍に増やして作られたお酒のことになります。
これは日本酒に二倍の醸造用アルコールを加えて、三倍の量にして造られていました。
三倍増醸酒は日本酒に二倍の醸造用アルコールを入れて造る日本酒なので、当たり前に日本酒の味わいなどが失われてしまいます。そのため、日本酒らしさを出すために、ブドウ糖や水飴などの糖類と、グルタミン酸やコハク酸や乳酸などの調味料を添加して造られていました。想像するとすごく変な感じになると思いますが、正式に日本酒として1949年に認められたのです。
三倍増醸酒は戦後の米不足からできたお酒になりますが、少量のお酒から製造できることもあって廃止される2006年まで主流となっていました。
コストの面からも安価で製造できたいたので、しょうがないことだと思います。
しかし、三倍増醸酒は糖類を添加するためにベタベタして甘い味となっていました。また、頭痛や二日酔いになりやすいとして、日本酒の品位を下げる形になりました。
現代の日本酒について
三倍増醸酒が主流となりましたが、三倍増醸酒が甘かった分その後は辛口ブームになりました。また国鉄と酒蔵が手を取り合い、地酒ブームもありました。
現在は芳醇甘口系が流行っていますが、そこに至るまでストーリーがあります。
食文化は時代の背景や流れにより、廃り流行りがあるものです。背景を知ることで日本酒の選び方や味わいも変わっていくと思いますのでぜひ参考にしてください。日本酒があなたにとって、生活を豊かにする手段となることを願っています!!